学生

卒業おめでとうございます自分。 

お疲れ様自分。

きっと生涯もうないであろう学生生活が終了しました。穏やかで、穏やかではなかった私のお話をしようと思います。私と縁を切る覚悟のある方だけ見てくださいね。

 

居残りをしてお菓子を食べたいとねだった穏やかな幼稚園生活が終わり、穏やかな小学校生活が始まった。片道歩いて45分かかる学校は楽しくて仕方なかった。宿題をしながら帰ったり放課後友達の家を行き来しながら遊んだり。よく考えたら1つ嫌なことがあった。仲良くしてた子のお母さんに「うちの子、あなたといるの飽きたみたい」と言われた。しばらくしてマラソン大会の前日、その子に「私金メダルが多くて銀メダルが欲しいからあなたが1位になってもいいよ?」と言われた。自分に敵わないと知っていて、だ。なかなかキツかった経験だった。小学3年生の頃父の青森市への転勤が決まった。悲しくてたくさん泣いたし盛大なドッキリであることを何度か確認してみたりもした。でもそれは現実で、小学校まで歩いて5分のアパートに引っ越した。とてもいい担任の先生でたくさん友達もできた。転校後すぐに硬筆のコンクール、版画のコンクール、歯のコンクールに入賞した。成績も悪くはなく、運動もできた。自分で言うのもアレだが、いわゆる優等生だった。(たぶん。)学校に行くのも友達と遊ぶのも楽しくて仕方なかったが、今考えるとここが20年間のピークだったように思う。

小学3年生の後半になって仲の良い友達が急に私の悪口を言い始めた。原因はたぶんその人が母子家庭2人家族だったから私が父と母と弟がいて幸せに暮らしていることへの嫉妬だと思う。学校に行きたくなくて毎日顔を合わせることが苦痛で全く楽しくなくて初めての感情に戸惑って、でも強く言うことも仲直りすることもできなくて、ただただ毎日を泣いて過ごした。後で大好きな担任に相談したらどうやら常習犯らしかった。

小学4年生になって部活が始まった。地獄が始まったことを意味した。なんとなく入った部活は厳しくてそれだけで嫌だったのに部活内でのいじめが始まった。表立ったことはなくて仲間外れにされたり試合でパスが回ってこなかったりするくらいだった。だから、気付かれることもなくひたすら精神的に追い詰められていった。なんとか家に帰って玄関で泣きながら寝て泣きながら宿題をやって夜中に寝て朝泣きながら学校に行く日々を送った。クラス替えをしても部活を引退しても小学校を卒業しても結局メンバーは同じ、気持ちは全く晴れなかった。

中学生になって勉強や部活で順位が付けられるようになった。どちらもできないわけではなくて、自分で言うのもアレだが(2回目)そこそこ優秀ではあった。人間関係はやっぱり難しかったけれど勉強も部活もそこそこ頑張っていたし楽しかった。穏やかだった。勉強をしたくなくて高校受験の時期になってもやらなかった。文化祭が終わって10月後半、やっと勉強し始めた。そこからは集中力が自分でもびっくりするほど凄くて狂ったように勉強した。父を超えたくて青森高校を目指したが正直東高校も危うい成績だった。でもやれることは全部やった、平日は学校に行って放課後は塾に10時までいたし休日は朝9時から夜10時まで塾に居座った。苦痛でもなんでもなく、ただ機械的に勉強していた。結局最後まで危うい成績だったが青森高校に受かった。運は昔からいいほうだった。

新たな地獄が始まった。勉強成績大学地獄だった。

合格者説明会に行った。校長先生のお話は東大と医学部の話だけだった。どうやら東大と医学部を目指さない人は来てはいけないようだった。知らなかった。

最初の授業は担任の数学だった。そこで公式を予習せず覚えてこなかった私は答えられるはずもなく、みんなの前で怒鳴られた。あぁ、私は本当にここに来てはいけなかったんだなと感じて勉強は諦めた。そしたら成績が下から数える方が早くなって毎日のように追試、追追試、補講などに呼ばれた。提出物は絶対に出していたし遅刻も欠席もなかったので3年間成績表に2以下が付くことはなかった。部活は体が動かせれば、いろんな競技を出来ればいいと思って入部したがみんな成績優秀で熱心で努力家で付いていけなかった。ちょっとだけ火がついた。

何とか1年生が終わって2年生になった。クラス替えがあって理系に進んだ。2年生の1日目をMRIを撮るのに休んだので輪に入れずにしばらく過ごしたら中学から一緒の子が声をかけてくれてご飯を食べたり移動したりしてくれた。担任はかなり厄介だった。みんな愚痴を言っていたが何とか過ごせてるようだった。私は耐えられずに365日24時間緊張して過ごしていた。毎晩泣きながら課題をこなして朝方に寝て玄関の前でひと泣きしてから学校に行っていた。知らないうちに限界がきていたらしく教室に入った瞬間頭が痛くなった。それからは酷くなる一方で初めて保健室で横になったが痛くて涙が出て寝れなかった。授業に出れないから早退すると判断して担任に報告しに行った。なぜか職員室で10分間立ったまま説教だった。頭が痛くて涙が出そうだったけれど耐え続けたら「泣くほど頭が痛いの?だったら早く帰れば?」と言われて泣きながら帰った。家に帰ったら頭痛は全くなくなってストレスだったんだろうな〜と呑気に考えた。次の日脳外科に行ったらやたらとアンケートを書かされて診断結果は鬱の1歩手前だと言われた。割れそうな頭痛は初めてだったからおかしいとは思ってたけど、相当酷かったんだろうなと。残りの半年はなんとか学校に行きながらクラスの数人と担任を変えてくれと抗議し続けた。そしたら転勤が決まったらしく、高校生活で1番くらいには喜んだ。寄せ書きには書くことがなくて「なんで髪の毛切ったんですか?」と書いた。長い長い2年生が終わって受験生になった。

部活が終わってしまって勉強しかやることがなくなった。ずっと栄養系の大学を志望していたが実は幼稚園の頃から美容師になりたかった。3年の夏休み、進路を決める三者面談の前日に父にそのことを話したらすんなり受け入れてくれた。今まで反対され続けてきたからかなり驚いたしちょっとだけ怒りもあった。これが許されていたなら青森高校に行かなくても、勉強しなくても良かったじゃないか、と。受け入れてくれたならもう専門に行くことしか考えられなかった。たくさん志望大学を調べてきてくださった新担任には申し訳ないと思いながら話した。青森高校から大学に行かないというのはかなり異例で先生たちが黙っていなかった。担任、学年主任、教頭、校長と説得されたが無視して専門に合格した。みんなよりかなり早く進路が決まって気まずかった。暇になったのに遊ぶ相手はいないし受験モードでピリピリしてるし報告なんて絶対に出来なかった。本格的に受験が近付いてきた頃、信頼している部活の友達3人に進路を話し、模試と講習を片っ端から休んだ。何となく過ごしてたら推薦の合格発表があり、私立の合格発表があり、自車校に行き始め、卒業式が終わって髪を染めてピアスを開けた。長くて辛い3年間がやっと終わり、上京した。

専門に入ってからは毎日が驚きで心と体と頭が追いつかなかった。あまりにも刺激的すぎた毎日だった。青森高校も異常な学校ではあったのでギャップが大きすぎたようだ。

みんなのことをひとことで言うと、「ルールの分からない生きるのが上手な人たち」だった。みんなと言ったがもちろん全員ではない。登校初日、彼女らは黙っていることが出来なかった。先生の話を黙って聞くことも、敬語を使うことも出来ないみたいだった。後で聞いたが母もなにか異様な雰囲気を感じ取ったと言っていた。しかしこんなの序の口だった。授業を受けるようになると私はドキドキハラハラしっぱなしだった。まず、黙っていられないので先生の声は1番前の教卓の前じゃないと聞こえなかった。出席番号が前の方だったので席も前の方だったがうしろを振り返ると私が想像したこともない光景が広がった。授業中に、メイクをしたりコテを使って髪をいじったりご飯を食べたりしていた。ビックリしすぎて目を見開いたし本当に授業中なのか何回も時計を確認した。授業中にこんなことをするのはドラマの不良学校だけだと思っていた。衝撃だった。内職とか寝るとかスマホとかならまだ分かる、分かってはいけないけど分かる。メイク?!ご飯?!そんなことあっていいのか?!みんなが授業に慣れてくると椅子にあぐらをかいて座ったり体育座りをしたり、または立ち歩いてみたり。そもそも先生もそんなに気にしていないのが不思議だった。もしかしたら長年の経験から諦めていたのかもしれないけれど。そしてもうひとつ分からなかったのは遅刻欠席だった。青森高校で遅刻してくる人なんていなかったし中学校でも小学校でもいなかった。専門の子たちは平気で遅刻してきた。遅延とか体調不良とかなら仕方ないけれどほとんど毎日のように遅刻してきたり無断欠席をしたり。信じられなかった。これは普通に考えて人としてやってはいけないことだよな?いや黙れない敬語使えない時点でかなり人としてやってはいけないが。私は中でも家が遠かったので家から20分なんだ〜などと言っている人が毎日遅刻してくるのは少し怒りすらわいた。

生活?も驚きですぐにいろんな人と関係を持ってしまったり泥酔して二日酔いのまま学校に来たりキャバクラで働いていたり。別にこれに関しては周りに迷惑をかけているけではなかったのでいいが、私の周りにいないタイプだったのでただただビックリしていた。

これだけ不思議な人たちだがみんな生きていく力は私より何倍も何十倍もあった。先生に好かれるのが上手だったり友達付き合いが上手だったり、世渡り上手ってやつだ。それから生活する知恵というか力というか、そういうものも備わっていた。地方から来た子は知らない土地で一人暮らしをしながらバイトをして、自炊で節約をしつつ家事もこなしていた。家賃生活費奨学金を払いながら貯金してる子もいた。ライブ代グッズ代を十万単位で稼いでいる子もいたし、学費を自分で稼いで払ってる子もいた。地元の子たちも実家にいるとはいえ自分でバイトして稼いだお金で食べ物ブランド物交通費などなどやりくりしていた。しかも生きやすくなるための情報量も私とは比べ物にならないくらい膨大だった。ジジババの家でのうのうと生きている私とはまるで別の世界で生きているようだった。バイトをしても続かないし家事はしない、自炊もしない、頼りっきりなだらけた生活だった。今日から一人暮らしです!ってなったらできるかと言われたら出来なかった。バイトの高学歴な先輩に「そういう人たちって下に見ちゃわない?見下しちゃわない?」と言われたことがあった。学校にいる時だけなら見下すというかもはや見もしないくらいだったが、みんなの生きる力を聞いて尊敬せざるを得なかった。成績は悪くないが生きる力のない私自身に絶望した。学生でなくなったら私には何が出来るんだろうか?不安で不安で、そんな時にコロナがはやりだした。

持病のある高齢者2人と暮らしてる身としては絶対にうつしてはいけないし自分だってかかりたくないから本当に外に出なかった。外に出ないからまず見た目を気にしなくなった。それからご飯を買いに行かなくなったので毎食冷凍食品かカップラーメンになった。人に会わないので喋らなくなった。暇になり動画やらテレビやらを見ることが増えて頭痛も比例して増えた。聴覚視覚過敏で2時間くらいしか寝れなくなった。体が食べ物を受け付けず1日一食の生活になり体重がどんどん減った。

今考えても本当に酷い生活だったと思う。でも緊急事態宣言が出されて学校もリモートとなればそうなるのは仕方なかった。次同じ状況になったとしても家に閉じこもっているはず…。

この先は本当に出かけていなくて話すことすらない。なんとか立て直して学校と家をひたすら往復し、志望の就職先にすんなり受かり、気付いたら冬休みだった。それからは国家試験に向けて練習したり勉強したりだった。メンタルが弱っていた私は完璧にならないカットとAW、なかなか100点を出せない筆記試験に精神を狂わせながらもなんとか終えた。卒業制作はやりたくなさすぎて何もやらなかったがそれが悪かったのか音響を全部任されてちょっと怒った。もう終わったことだしいいけれど。卒業式は袴を着てできた。このご時世だから中止になるかと思っていたが区切りとして、出来て良かったと思う。仲良い子何人か以外にはなんの未練もなかったし今の時代誰とでも繋がれるので躊躇なくすぐ帰宅した。

こうして呆気なく学生生活が終了した。

 

卒業の日に出すと言い、仕事が始まるまでに出すと言い、、、怠惰な性格でかなり先延ばしになっちゃいました。まあこんな文章を心待ちにしていた人はいないと思いますが笑

いろいろなことを経験して、私はこの先ヘラヘラせずに生きていくことは無理だと感じました。実際今も職場でヘラヘラしながら生きています。もう自分に絶望するのはうんざりなので出来ることも出来ないかもしれないとレベルを下げ、夢は小さく目標は低く、周りにも自分にも期待せずに生きています。たまに自分ってなんて悲しい人間なんだろうな、とは思います。今は早くコロナが収束したらいいな、とばかり考えています。友達にも会いたいし、外食もしたいし、旅行もしたいし、1人で東京を探検したりもしたいです。やりたいこといっぱいあります。いつか明けた日のために働いて貯金しています。そろそろ自粛も疲れてきましたが、その日のためだけになんとか食いしばって我慢して生きています。みなさんも気を付けてくださいね。

国語と会話が苦手なので文章にオチを作ることが出来ませんでした。勉強します。長々とした私の憂鬱な記録を最後まで読んでいただいてありがとうございました。